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東京高等裁判所 昭和43年(行コ)46号 判決 1970年9月17日

控訴人(被告) 中央労働委員会

被控訴人(原告) 株式会社興人

補助参加人 全国紙パルプ産業労働組合連合会 興国人絹パルプ労働組合八代支部

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は、控訴人被控訴人間において生じた分を控訴人の負担とし、参加によつて生じた分を補助参加人の負担とする。

事実

控訴人訴訟代理人は、「原判決主文中第一項及び第三項を取消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴人訴訟代理人は、控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の主張ならびに証拠関係は、次に記載するほかは、原判決事実摘示記載のとおりであるから、これを引用する(但し、原判決一一枚目表八行目に「比判」とあるを「批判」に、一四枚目表一一行目に「同年二月一五日」とあるを「同年二月五日」に、四五枚目裏三行目に「一般の責任」とあるを「一半の責任」に、四九枚目表一行目に「説論処分」とあるを「説諭処分」に、五三枚表一〇行目に「説論し」とあるを「説諭し」に、別紙(一)表三、四行目に「陳謝文(縦八〇糎、横一〇〇糎)の杉板に墨書を」とあるを「陳謝文(縦八〇糎、横一〇〇糎の杉板に墨書)を」に各訂正する。)。

控訴人補助参加人(以下、「参加人組合」または「旧労」という。)の訴訟代理人は次のとおり述べた。

一、被控訴会社と参加人組合の関係

(1)  参加人組合から興国人絹パルプ八代労働組合(以下、「新労」という。)が分裂した昭和三七年六月直前の被控訴会社の従業員数は次のとおりである。

組合員  非組合員  従業員数

本社及び大阪支店  二一七   八〇    二九七

富山工場      六六八   三五    七〇三

佐伯工場      六六五   三〇    六九五

八代工場    一、三〇八   三〇  一、三三八

富士工場      三三八   一五    三五三

計       三、一九六  一九〇  三、三八六

(2)  被控訴会社従業員は、終戦直後各事業場毎に各別の労働組合を組織したが、昭和二二年企業単一組織の興国人絹パルプ労働組合(略称「興人労組」)を結成して各事業場毎にその支部を設け、上部組織としては日本労働組合総評議会(略称「総評」)傘下の全国紙パルプ産業労働組合連合会(略称「紙パ労連」)、全日本労働組合会議(略称「全労」)傘下の全国繊維産業労働組合同盟(略称「全繊同盟」)の双方に加盟していたところ、昭和三三年被控訴会社が企業合理化の名による大量人員整理により全従業員の約三分の一に当る一、四一三名の解雇を強行するに及び、興人労組は戦闘性を強め、昭和三四年三月全繊同盟を脱退し、上部組織を紙パ労連一本にしぼり現在に至つている。

(3)  昭和二八年五月頃紙パ労連臨時大会は、連続操業問題を討議し、連続操業が、(イ)労働基準法の精神及び社会慣行に基づく休日一定の原則を侵し、(ロ)労働強化をもたらし、(ハ)労働災害を増加させ、(ニ)組合運動に支障を来すなどの弊害を伴うところから、連続操業反対を決議したが、昭和三六年関係各社の連続操業協定の期限を翌三七年三月一日までに統一し、同時に連続操業問題を紙パ労連全体の統一闘争としていく方針が打出された。

(4)  この間興人労組は右紙パ労連の方針にそい被控訴会社の連続操業に反対して闘争を繰返し、連続操業は常に組合との協定成立をまつて実施されていた。

他方、被控訴会社は、いわゆる日米安保条約締結後の昭和三六年貿易自由化に備え、国際競争力を強化するためとして、「長期合理化推進本部」を設置して新規事業を推進し、既存部門については五年間に生産を倍にし人員を半分にするなどの資本本位の大合理化計画を打出したが、同計画は、労働者の解雇・配転、事業場閉鎖、連続操業による労働強化、経費節減のための福利厚生施設の縮小・廃止・諸科金の引上げ、定期昇給の固定化、安定賃金制等労働者の犠牲の上に進められる内容のものであつた。被控訴会社は、昭和三六年六月二六日右合理化計画に従つて興人労組に対し、同年一一月から佐伯工場における連続操業日数を従来の二六日から二九日に延長したい旨申入れ、当時事前協議制の確立によつて資本本位の合理化計画に対処しようとしていた興人労組との間で協議の末、同年七月一七日合理化計画については組合と十分協議し、組合の諒解を経た上で実施する旨の事前協議協定が成立し、これにより連続操業問題を含む合理化計画のすべてに亘つて労使間の協議が必要となつた。

ところが、被控訴会社は、佐伯工場において連続操業に関する協定不成立のまま同年一一月九日から二九日間連続操業を実施しようとしたところ、協定不成立を理由に組合の反対に会い、事前協議の必要を認めて一旦その実施を差控えたが、同月一七日労使交渉の際、組合に対し一方的に一二月度から二九日連続操業を実施する旨通告し、再度組合の反対に会つて実施できなかつた。

(5)  興人労組は、昭和三七年三月二日被控訴会社に対し一律六、〇〇〇円の賃上げその他七項目に上る春闘要求を提出し、三ケ月余に及ぶ激しい闘争の末に争議が解決したが、右春闘要求の中心問題の一つが佐伯工場における二九日間連続操業問題であつた。被控訴会社は、同月二〇日興人労組に対し佐伯工場における二九日間連続操業を前記協定期間経過後会社の経営権で一方的に実施する旨言明し、前記昭和三六年七月一七日の事前協議協定を根拠に反対する興人労組に対し、佐伯工場における二九日間連続操業を認めない限り春闘要求についての修正回答はしない旨通告し、前記のような合理化反対、賃上げを中心とする闘争が展開された。

(6)  昭和三七年六月における右闘争の経過は次のとおりである。

九日  佐伯工場ロツクアウト。

一〇日 八代工場ロツクアウト、富山支部興人労組脱退。

一一日 富山支部脱退に関連した旧労組非難の会社声明発表、八代工場ロツクアウト、本社支部興人労組脱退、富士支部興人労組脱退、佐伯支部組合員大量脱退・新労組結成。

一二日 八代支部組合員大量脱退・新労結成、旧労非難・新労歓迎の会社声明発表、旧労スト解除通告・ロツクアウト解除就労要求、興人労組中央執行委員長解雇(昭和四一年一二月二八日熊本地方裁判所八代支部で不当労働行為と認め従業員たる地位を仮に定める判決があつた。)、同労組佐伯支部委員長解雇(同年八月二五日大分地方裁判所で同様の判決があつた。)。

一三日 新労就労・籠城。

一四日 本件発生。

一六日 旧労に対するロツクアウト解除。

二〇日 旧労就労。

このようなロツクアウト、各地に散在する全事業場で殆ど日を同じくして発生した労組の分裂、会社声明、中心的組合役員に対する不当解雇、スト解除後の旧労に対する不当なロツクアウトの継続等一連の事実に、資本本位の合理化に対する旧労の強硬な抵抗闘争を併せ考えれば、前記組合分裂に被控訴会社の工作が施されなかつたとは到底考えることはできない。

二、相川宏遠(以下、「相川」又は「相川課長」という。)と中川ヤツノ(事件当時旧姓釜賀、以下、「釜賀」という。)の関係

相川は、偶然の事情から口を聞いたことがあるという程度の課員江後譲(以下、「江後」という。)に頼まれて釜賀の採用の口添えをしたに過ぎない。つぎに、身元保証人になつたのは、保証人の一人は慣例として必ず社内の者とされていたので、社内に適当な知人のない釜賀に頼まれ、断る理由もない軽い気持で引受けたもので、保証人の責任も右慣例から判るように労働者の身上に関する責任でなく、会社の意を体して労働者を支配統制する責任にほかならず、身元保証人といつても特別の人的信頼関係を基礎とし、或はこれを発生させるようなものではない。相川が釜賀に対し身元保証人として話をしたとしても、身元保証人の責任は右のような責任にほかならないのであるから、保証人としての行動は、まさしく会社の意に適つた行動である。相川の釜賀に対する「君が第一に残つてそんなにつとめても、他の人達は変なことをいう」というおためごかしの発言は、一般に分裂工作において会社側の愛用する常套手段であり、現に本件の二日前に永松係長が釜賀に脱退を勧めた際も同様の手を使つている。

また、釜賀が原液課工務室に配属されたのも、丁度工務室の女子従業員の入替の時期で、できれば新入社員がよいのではないかということから配属されたに過ぎない。

最後に、釜賀が相川宅を訪問したのは、昭和三七年一月二七日採用口添えのお礼、同年三月二四日送別会の流れ、同年四月四日身元保証人依頼、同年五月一四日会葬お礼、ほかに相川の依頼で一回であつて、すべて儀礼的なものか、職場の先輩達に随行したか、課長の使いにほかならず、課長と部下の関係以上の親密な付き合いを窺わせるものはない。

以上どの点からみても、原判決理由のように「単なる課長と課員の間柄以上に出てないものであつたとは言い切れない点があり、」とすることはできない。

三、本件不当労働行為

(1)  会社側の工作

本件のあつた六月一四日当時は、前記三ケ月余に亘る旧労の闘争が続けられた末、全事業場で殆ど日を同じくして発生した組合分裂によつてスト解除を余儀なくされ、被控訴会社は新労を就労籠城させ、旧労に対してはなおロツクアウトを継続していた。右組合分裂に会社の関与があつたことは、各地に散在する全事業場における組合分裂が殆ど時を同じくして行われていること、八代工場におけるロツクアウトとスト解除とロツクアウト解除との時間的関係、分裂当日被控訴会社がいち早く分裂を歓迎する旨の声明を発表し、旧労嫌忌、新労歓迎の態度をことさらに表明したこと、分裂の前後にかけて分裂グループと会社とのつながりを疑わせるような数々の動きがあつたこと、元八代工場長であつた傍系会社役員三浦某の働きかけ、前記組合役員二名に対する不当解雇等の事実から、ほぼ間違いない。会社側のこのような工作は、事柄の性質上確証を求めることが殆ど不可能であることは常識であるので、本件のほかに救済命令申立事件がなかつたことから会社のかかる工作がなかつたとすることはできない。

(2)  相川の行為

当時原液課の現場事務所である工務室には、相川課長の下に従業員二〇名が所属していたが、釜賀以外は全員男子で、すでに新労に加入し、旧労に残つていたのは釜賀一人であつた。相川は、旧労の団結破壊を少くとも望んでいた会社の意を体し、工務室所属員全員の新労加入を達成して管理職としての手腕を示したいという功名心にかられ、ただ一人旧労に残つていた釜賀が高校を出て入社したばかりで、一見組し易く見えたところから、新労加入の説得を企てるに至つた。そこで相川は、午後八時前頃、新労に入り就労籠城していた原液課工務室調査係沖田義昭(以下、「沖田」という。)を、相川方から七、八キロメートル離れた釜賀方まで釜賀を迎えにやつたが、待ち切れず午後九時前頃には自身タクシーで釜賀を迎えに行き、午後九時過頃自宅に連れ帰つてから釜賀に対して、旧労脱退、新労加入を迫り、これに対し釜賀が強硬に旧労を弁護して会社、新労を非難して意見が対立したが、深夜一二時過頃には話題も尽き話もとぎれ勝ちとなり、その後は、原判決添付控訴委員会命令書第1、4記載の経過により、翌朝午前六時頃、相川は釜賀を帰したのであつて、このような相川の行為が不当労働行為を構成することはいうまでもない。

四、本件は旧労ないし釜賀側が仕組んだ罠ではない。

(1)  仮に当日午後二時頃相川宅に氏名不詳者から江後及び釜賀が訪問することを予告する電話があつたとしても、わざわざ沖田に迎えにやつた以後の相川の積極的な行動が不当労働行為たる性質を失うものではない。すなわち、相川が七、八キロメートルも離れた釜賀方まで夜分わざわざ沖田に迎えにやつただけで足りず、二晩徹夜で操業準備に忙殺されて疲れ切つた体でわざわざ車を呼んで自身迎えに出向いていること、午後九時頃から翌朝六時頃まで仮眠さえもとらずに話合つていること、話題は組合分裂に関連した問題に終始していること、この間相川は籠城中の部下四名及び江後を釜賀の希望とはいえ深夜自宅に呼びつけていることなどの点からみただけでも、事の発端がどうであれ、当夜の出来事は、相川が釜賀の相談に乗るというような受身のものではなく、相川が積極的に旧労脱退の働きかけを行つたものであることに疑問の余地はない。

(2)  のみならず、右訪問予告電話はなかつた。

(イ)  電話の主が始め名乗つたようだが、名前を聞き返す間もなく江後と釜賀の訪問を予告し、一方的に予告し終ると訪問の目的も言わず返事も聞かず電話を切つたというのは、訪問予告の電話としては極めて不自然である。

(ロ)  相川方の電話は社内専用電話であるが、相川が操業準備のため社内泊込み中であることは知れ切つた事実であるから、訪問予告を直接相川にすることなく、社内からわざわざ相川の自宅に連絡した者があるとすれば、そのことだけで、相川らに電話の意図について疑惑を抱かせるに十分である。

(ハ)  電話の内容についてみると、訪問の目的を告げ、先方の都合を尋ねることは常識であるばかりでなく、本件の場合相川は社内泊込み中で、その妻でさえ相川に電話して当日の晩帰るかどうかを知り得た位の時期で、このことは旧労側の者も承知していたところであるから、旧労の者が仕組んだ電話であつたとすれば、その目的を達するためにも必ず相川の都合を確めたはずである。

(ニ)  訪問予告電話なるものによれば相川を訪問することになつていたはずの釜賀が、自発的に訪問しようとした形跡は全くないばかりか、沖田に対しても自宅と雑貨店前とで二回にわたつて訪問を拒絶し、相川自身がわざわざ車で迎えに来て同行している。

(ホ)  訪問予告電話なるものは、江後と釜賀両名の訪問予告ということになつているのに、相川が沖田に迎えを頼み、後に自ら迎えに行つたのは釜賀一人であつて、江後のことは全く忘れ去られている。

(ヘ)  六月一二日には原液課長付調査係担当係長永松泰三(以下、「永松」という。)が夜分わざわざ釜賀を自宅に訪ね、旧労脱退、新労加入の説得を試み、その顛末を相川に報告した事実があり、本件はその僅か二日後の出来事である。

以上の事実に相川の行動の異常なまでの積極さを併せ考えれば、問題の訪問予告電話なるものが架空であることは明らかである。

(3)  旧労側は、当夜の釜賀の行動を把握していなかつた。すなわち、釜賀は雑貨店から電話をかけた後沖田にはつきり同行を断つたが、その後結局相川方を訪問する羽目になつたのは、相川自身がわざわざ自動車で迎えに来たからにほかならない。その後深夜相川宅に電話がかかつて来るまで、釜賀が旧労と連絡をとる方法はなかつた。旧労側において、釜賀が沖田に同行を断われば、相川自身が疲れ切つた体で迎えに来るということまで予測していたというのでなければ、旧労が釜賀の当夜の行動を把握していたとはいえない。旧労は釜賀の行動を把握していなかつたからこそ、断わるよう助言はしたものの、断わり切れずに連れて行かれたのではないかと心配して電話してみたものにほかならず、帰つたという相川の返事にそれ以上追及することもなく、引下つたのである。もし、旧労が釜賀の行動を把握していたのであれば、旧労は一体何のために電話をしたのであろうか。

(4)  釜賀が雑貨店から旧労に電話した後沖田に同行を断わつた際の言葉は、「相川の家には行きません。」というのであつて、「今日は行かなくても良くなつた。」と言つたのではない。

(5)  釜賀が二回にわたつて相川宅に江後や永松らを呼んでもらつたのは、一晩中同所にいることを他の者に見せるため、ないし長時間居すわるための手段ではなかつた。釜賀が皆を呼んでもらつた主たる目的は、一しよに帰る機会を作ることにあり、そのついでに他の人にみせておきたいという気もあつたというに過ぎない。釜賀が皆と一しよに帰らなかつたのは、相川が「ともかく君達は帰つてくれ」と皆に言つて、釜賀に対しては言外に残つていろという態度をとつたためである。

(6)  相川が、かつて組合役員の経験があり、「会社はテコ入れなど一切やつていない」と断言したとしても、このことから不当労働行為的言動をしたかどうか疑問であるということはできない。

(7)  旧労が罠を仕組んだというのであれば、旧労は、いかなる筋書を構想していたといえるか。

(イ)  まず、相川が帰宅するかどうか判らないまま、釜賀が自発的に訪問して、折よく相川が居合わせたら不当労働行為的な言動を挑発するという筋書は、釜賀が自発的に訪問しようとした形跡がないばかりか、かえつて相川に頼まれて迎えに来た沖田に対しても自宅と雑貨店前とで二度までも訪問を拒絶し、相川が迎えに来るに及んで同行するに至つたことから成立ち得ない。

(ロ)  残る筋書は、訪問予告電話をしておけば、操業準備に多忙を極めていた相川が帰宅して、釜賀が自発的に訪問しなくても、更に使いの者に同行拒絶までしても、結局相川が二晩徹夜の疲れを押して七、八キロメートル離れた釜賀方まで迎えに来るということまで読切つていて、相川がその筋書どおりに行動したということ以外にないが、このような構想は人間の能力の限界を超えるものである。のみならず、労働組合は、罠を仕組むような卑劣、非人間的な組織ではない。

五、以上詳述したところから明らかなように相川の本件行為は疑いもなく不当労働行為を構成するものであり、しかも、稀にみる悪質な不当労働行為として非難を免れないものといわなければならない。

被控訴人訴訟代理人は次のとおり述べた。

一、(一) 前記補助参加人主張一、(1)の事実は認める。

(二) 同(2)の事実中、昭和三三年被控訴会社が企業合理化を名とする大量人員整理により全従業員の約三分の一に当る一、四一三名の解雇を強行するに及んだとの点を争い、興人労組が戦闘性を強めたとの点は不知、その余の事実は認める。

昭和三二年アメリカの景気後退に基づく国際的消費の減少に伴い、パルプ、化繊の市況が暴落し、被控訴会社(以下、「会社」ともいう。)の経営が漸次悪化の傾向をたどつたため、会社は赤字解消のため収益性の特に悪い部門を閉鎖し、設備を関係会社三興紡績株式会社に移設し、閉鎖部門に勤務していた従業員中の希望者を同会社で採用してもらうことにし、その他のパルプ、紙、化繊の部門についても積極的合理化を計画したが、これらの部門においても人員整理を行わなければ赤字解消の出来ないことが判明した。そこで、会社は昭和三三年二月興人労組に対し、紡績部門の閉鎖とその他の部門の人員整理を提案交渉したが、同意を得られず、翌三月紡績部門の閉鎖(四九七名)と指名解雇(組合員三三四名)を含む人員整理を実施した。そして同年五月会社と興人労組間で、指名解雇者を希望退職者として取扱い退職金等を増額する等の合意が成立し、一名を除く全員が希望退職し、人員整理問題は一応解決された。

なお、現在、興人労組の組合員は、八代支部で八代支社全従業員約一、一二〇名中約六五名、佐伯支部で佐伯支社全従業員約六〇〇名中約二〇名、以上計約八五名をもつて組織されており、本社従業員約三三〇名、富山支社従業員約六三〇名、富士工場従業員約四五〇名中にはいない。

(三) 同(3)の事実は不知。

(四) 同(4)について。

会社は、八代工場では指定休日要員をおき年間無休操業をしてきたが、佐伯、富山両工場では休日を完全消化するだけの指定休日要員をおかなかつたので、二八、二九、三〇などの連続操業を実施するためには、製造部門勤務従業員の休日出勤又は残業をさせねばならなかつた。そこで、佐伯、富山両工場の右連続操業の実施は、興人労組の下部組織である佐伯支部、富山支部と、いわゆる三六協定の締結が必要であるため、右各支部とこれを締結したうえ、その都度交渉して右連続操業を行なつてきた。しかし、交渉如何により同じ二八操業でも手当が異なる場合もあり、両工場従業員から会社に不公平であるとの不満も出てきたので、会社は、各工場ごとに協定することから生ずる不都合を除去する必要から、昭和三一年九月、協定改訂及びベースアツプ交渉にあたり、興人労組に対して、労働協約中に右両工場における週休日、特定休日中五日間の操業をすること、その操業手当に関する条項を入れることを提案し、かつ、その代償として当時の紙パルプ産業大手一〇社の平均の倍額を上廻るベースアツプをする用意がある旨の回答をしたところ、右両工場における週休日、特定休日中二日間の操業をすること、その操業手当について合意が成立し、同年一一月このような操業制度を含む労働協約が締結され、以後、会社は右両工場で二八、二九、三〇などの操業制度を採用したが、その変更にあたつては、いつからどのような操業制度を採用するかを各支部に通知するだけで変更してきた。したがつて、会社がこのような連続操業を行なうにあたり組合との協定成立をまつて実施してきたという実績はない。

又、前記人員整理実施後、会社はパルプ、紙、化繊部門の合理化を推進したが、新合成繊維の台頭により、化繊の需給は好転せず斜陽化は殆ど決定的になり、その原料であるパルプもこの影響を受けて低迷し、赤字が累増して会社の存立すら危ぶまれるに至り、昭和三五年六月経営者が更迭、1、既存設備の充分な活用により徹底的な、但し、設備投資を避ける点で消極的な合理化、2、新規事業の開発を方針として、長期合理化推進本部を設置したが、同本部は、翌三六年、佐伯工場におけるパルプの集中的生産とその操短調整を富山工場ですること、新規事業として富山工場でハードボード、八代工場でセロフアン、佐伯工場でイーストを製造することを提案し、会社は、これを採択して、同年二月中央労使協議会で興人労組に右計画の大要を発表し、これを進めぬ限り会社が企業競争の列外に放置され、遂には存続すら危ぶまれることを説明し、その施策の成否は一に興人労組の協力如何によると訴え、強く協力を要請した。ところが、興人労組は、会社の前向きの方針を諒としながら、労働条件への跳ね返りとか新設会社に組合員を追いやる実質的な人員整理という不安を抱き、同年五月会社に対し、合理化ならびに新規事業開発について右のような不安があるので事前に組合の同意を得た後に実施して欲しいと要望し、そのようなことがないとの会社の説明にも拘らず、合理化即人員整理ないし労働条件低下と考え、右要望について協定書締結を主張して譲らなかつた。そこで、会社は、当初、合理化により労働条件が低下するかどうかについて充分納得のいくよう話合はする、新規事業についても同様充分納得するよう説明する旨の協定案を示し、次いで同案を、労働条件が低下するかどうかについて誠意をもつて協議をするとする旨譲歩したところ、同年六月中旬興人労組もこれを承認し、同年七月一七日労働協約と同時に同日付確認書により、合理化諸計画(新規開発事業を含む)については労働条件の低下を来たさない内容をもつて予め労使間において誠意をもつて協議する旨の協定が成立した。従つて、補助参加人の主張するように連続操業問題を含む合理化計画の全てにわたつて労使間の協議が必要となつたということはない。

会社は、同年六月下旬興人労組に対して、佐伯工場におけるパルプ日産量一〇トンアツプ、二九操業の恒久的実施、新規事業イースト、核酸、リグニン製造等を提案し、その具体策を説明した。そして、これらが佐伯支部固有の問題であり、給与にかかわらなかつたので、協約により佐伯工場において同支部と交渉した結果、同年九月八日佐伯工場、佐伯支部間で、イースト、核酸の生産に関する協定書が締結された。しかし、パルプ日産量アツプは、支部との交渉が行詰り、協約により興人労組との交渉に移行して、同年一〇月一三日双方了解し、興人労組の申出により細部事項は佐伯現地で合意が成立し、同月二二日興人労組中央執行委員会で以上に関する協定締結が承認された。会社は、右承認後形式的な協定書の調印が残されているものとし、一一月度(一〇月二一日から)二九操業実施を考えていたが、指定休日要員も完全に充足されていなかつたので、佐伯支部の協力を要請、その同意を得て一一月度はとりあえず二七操業を行うことにした。ところが興人労組は、前記のとおり二九操業実施について了解点に達していたのに、新たに協約に反する内容を含む協定案を示して会社に迫つたばかりでなく、二九操業協定が締結されぬ限り二六操業によるべきであると主張して譲らず、会社と佐伯支部で合意に達した二七操業を行なうことを拒否し、剰えスト権を集約することなく一一月度の休転日を一方的に決定し通告してきた。佐伯支部は、一一月度から二七操業を実施しており、会社がこれを行なうときは協力すべき立場にあつた。しかし、会社は、興人労組の協力を得た後に二九操業を実施すべく、その協定も近く締結されるものとして、二七操業強行が右協定締結に悪影響を与えること等から、一一月度に二七操業をすることを控え、一二月度も同様興人労組の反対があつたためこれを実施しなかつたが、協約上実施できなかつたからではない。

(五) 同(5)について。

前記春闘要求に対し、会社は現行操業制度を認めぬ限り修正回答はしない旨通告したが、右「現行操業制度を認めぬ限り」というのは、八代工場における操業制度であつて、補助参加人主張のように佐伯工場二九操業制度についてではない。同春闘要求において佐伯工場の操業制度については何らの要求がなかつた。また、興人労組が佐伯二九操業を二六操業に戻す旨の要求を行なわなかつたのは、当初から春闘要求とは別個の問題と考え対処してきたからである。従つて、興人労組は、佐伯二九操業を二六操業に戻すことについてスト権を集約することはもとより、下部討議すら行なつていない。佐伯二九操業問題は、春闘要求とは全く切離された問題として、春闘の中で派生的に生じたに過ぎない。因みに、会社が興人労組の八代工場における操業要求を認めたとすれば、年間稼働日数二八〇日で年間生産は約四分の三に激減し、経済的に成り立たず、同工場を閉鎖するほかないものであつたので、会社は「八代工場において年間無休の操業制度を認めない限り」生産計画すら立てることができないから修正回答ができない旨回答せざるを得なかつた。

(六) 同(6)について。

興人労組は、二九操業協定期間経過後は二六操業に戻り自ら休転日を設定できるとして、同年五月五、六両日を休転日と定めて工場を休転させ、その後同月一七日以降無期限ストライキに突入した。会社は、再建のため同労組の意向を尊重し行動してきたが、同労組の言動は会社の再建を否定し、これを根底から覆す危険なものと評価し、企業維持存続のため毅然たる態度をもつて接するほかないと考え、翌六月五日全工場にロツクアウトを指示した。そこで、佐伯工場は同月九日、八代工場は同月一〇日ロツクアウトを行なつた。ところが、同月一〇日富山支部が、同月一一日本社支部、富士支部がそれぞれ興人労組を脱退し、同月一一日には佐伯支部組合員が、同月一二日には八代支部組合員がそれぞれ大量脱退し新労組が結成された。会社は、同月一二日、八代工場で原判決事実摘示中原告主張四、(七)、(5)記載の声明を発し、また、かねてから懸案であつた組合指令による五月五、六両日の休転日の設定について、前記のとおりスト権も集約せず、会社に対し佐伯二九操業を二六操業に戻す要求もしないで、執行機関に過ぎない中央執行委員会の決議によりほしいままに組合員を休務させた責任を追及するため補助参加人主張の組合役員二名を解雇した(同主張の各仮処分申請事件は現在控訴審に係属中である。)。

前記ロツクアウトは興人労組の争議行為に対抗する争議手段として不当のものでなく、まして紛争の長期継続により、会社の再建はもとより、会社を解散しなければならない深刻な事態に追込まれていたのであるから、正当であることはいうまでもない。ロツクアウト後、支部ぐるみ乃至支部の大部分の組合員が興人労組から脱退して新労組を結成したが、その間何ら因果関係がないから、このためロツクアウトが違法視されるはずはない。まして、興人労組は無期限ストに突入していたのであるから、ロツクアウトにより組合員の失なうものは何もなかつた筈である。しかるに興人労組はロツクアウトと共に分裂した。すなわち、興人労組は、組合員の総意を無視抑圧し、いわゆる幹部闘争を行なつていたから、ロツクアウトを契機として分解したのであろう。現実の問題として、会社がいかに組合を籠絡しようとしても、支部の全組合員とか約九〇パーセントに達する圧到的多数の組合員を脱退させることができる筈がない。

二、前記補助参加人主張二について。

相川は、江後から釜賀の補充採用の援助を頼まれ、そのまま勤労課に取次いだのではない。相川は、江後をしつかりした人物と評価していたが、その依頼を受けて釜賀と面接し、健康な、はつきりした性格の女性であるとの好印象を受けたので口添えを決意し、はじめて勤労課長に補充採用の有無を確認した上、江後の義妹であり、よい子だから補充採用の際その点を考慮されたい旨依頼したものである。

また、相川が釜賀を原液課工務室に配属させたのは、釜賀の入社に当り面倒をみ、義兄江後が同じ職場におり、釜賀の第一印象がはきはきした女性で工務室に向いていると判断したからであり、釜賀に対する好印象が固定し強化されつつあつたからである。このような経緯によれば、相川が釜賀の身元保証人になつたとき、すでに釜賀は、社内からの身元保証人としては義兄江後に依頼すれば足りるのに、できることなら相川になつてもらいたい、相川も釜賀の身元保証人になつてやろうという人間関係が存在していたことは明らかである。だから、相川は身元保証書に本人との続柄を知人と記載したのである。以上、相川が身元保証人となつた過程は、釜賀と相川との関係が唯単なる課長と部下との関係でなかつたことを示すものである。

単なる課長と課員との関係であれば、課員の訪問の際家族が顔を出しはしない。まして相川の妻が家族のアルバムを見せる筈がない。相川が自宅への使いに釜賀を選んだのも釜賀に対する深い信頼があつたからである。会葬の礼も釜賀の実兄が赴くのが一般であろうが、これは釜賀の家族も相川と釜賀とが単なる課長、課員の関係にないことを熟知していたからで、本件当夜も釜賀が相川方で一夜を過ごしたことについて些かも非難しなかつた。

以上に関する補助参加人の主張は、人間関係を無視した機械的なもので経験則に反する。

三、(一) 前記補助参加人主張三、(1)について。

興人労組の分裂は、本社二〇三名の組合員全員が、富山工場では三名を除く六四〇名が、富士工場では一名を除く三四五名が、佐伯工場では五八名を除く六〇五名が、八代工場では二五四名を除く一、〇五四名が、それぞれ興人労組を脱退して新組合を結成した。すなわち、組合員の約九割が一挙に組合を脱退して新組合を結成するに至つたもので、わが国の労働運動史上、空前絶後のものであり、これを使用者の工作であつたと考えることは全くできず、それ以外の要素によると考えなければ理解できない。まして興人労組は戦闘的組合であり、会社が工作をしたとしてもこのような結果の生じないことは明白である。ロツクアウトそのものは使用者の自衛的争議手段の行使であり、分裂工作でないことはいうまでもないが、これと旧労のスト解除とロツクアウト解除の間の時間的ずれは、操業中の新労に対する殴り込みの危険があつたからである。分裂は右スト解除前に生じており、ロツクアウト解除と分裂ないしスト解除とは何らの関連はない。会社が前記昭和三七年六月一二日の声明を発した事情は、原判決事実摘示中原告主張四、(七)、(5)記載のとおりである。補助参加人は分裂グループと会社とのつながりを疑わせるような動きがあつたというが、何ら根拠はない。組合役員の解雇も、会社は、当初から責任追及を表明していたが、平静になるまで、その時期をずらしていたにとどまる。

(二) 同(2)について。

まず、会社は、興人労組の団結破壊を望んではいず、むしろ、その協力を得ることが先決で、これなくして会社の再建は不可能と考えていた。次に、相川と釜賀との人間関係が単なる課長対課員の関係をこえた個人的関係にまで発展していたことは前記のとおりであり、相川が釜賀の勤務状況その他について他の従業員より深い関心を抱き、入社以来普通にいつて可愛がつて来たことからも明らかであるが、こうした関係は、五月二五、六日頃興人労組の実施したストライキにより絶たれた。そして、相川は、本件当日釜賀が相川宅を訪れるという連絡を受け、組合加入後間もなく組合の分裂、組合員相互間の対立を経験した釜賀から当然何らかの相談を受けるものと考え、些かの不審も抱かず、どういう悩み事の相談に来るのか、どうしてそれを解消してやれるかだけを考え他を省みる暇がなかつた。だからこそ、疲れていたにも拘らず釜賀が来ないので同女宅まで行つたのであり、同女から求められるままに江後その他の者を自宅に呼び、同女の希望を充したのである。この相川の心情を無視して、相川が功名心から本件行為にいでたと理解することは到底できない。まして、釜賀は女子で生産に何ら関係なく、このような釜賀を新労に入れたとして、管理職として会社からどの程度評価されるであろうか。

四、(一) 前記補助参加人主張四、(1)について。

たまたま訪れた沖田に釜賀を迎えにやり、操業準備に忙殺されていたのに車を呼んで自ら釜賀を出迎えた相川の言動は、前記のような相川と釜賀との関係を除外して理解することはできないものである。すなわち、釜賀は、高校卒業後間もない女子で、生産と殆ど無関係の業務に従事していたのであり、会社が生産再開のため必要不可欠の従業員と考えていたならば格別、生産再開に不必要な釜賀を旧労から脱退させるというだけの目的から、相川が沖田をして迎えにやり、更に疲れ切つた身体で自ら出向くなど到底理解できないところである。相川宅に原液課員や江後が来るようになつた発端を検討せずに、相川が旧労脱退を働きかけたと断ずるのは早計である。当夜の相川宅における話が分裂問題に終始したのは、釜賀が会社は分裂工作をしている等の挑発的発言をしたからである。相川は翌朝五時頃まで釜賀を自宅にとどめることとなつたが、相川が釜賀と話合つたのは午前〇時過頃までであつて、その後原液課員が来るまで話らしい話はなく、原液課員や江後らが来てからは話合は同人らとの間で行なわれている。同僚や江後を呼ぶよう釜賀が要求したのに相川が応じたからといつて旧労脱退のための働きかけといえない。相川と釜賀が単に課長と課員という間柄に過ぎないものであれば、若い女子課員を一夜中相川宅にとどめたことは、その周囲に何らかの波状を投げずにはおかない筈であり、釜賀の父兄が電話問合せをする等し、釜賀も家族が心配するから早く帰してほしいと申出るのが常識であるのに、このような事実はなかつた。

(二) 同(2)の(イ)ないし(ヘ)について。

(イ)  訪問を予告する電話の際、用件を告げ、在不在を確かめるのは殆ど稀有であり、また、相手の返事も聞かず発言の暇を与えずに電話を切つても不自然とはいえない。このことは、電話を受けた相川の妻もこれを不自然と受けとらずに相川に電話したことからも明らかである。

(ロ)  当時、相川は原液課の生産に追われ、課員をはじめ現場係員は操業準備のためそれぞれ仕事を担当していたので、相川が社内に居たからといつて課内の者全員と顔を合わせ話合うことは不可能な事情にあり、このような情況のもとで課員が忙しい相川課長を電話で呼出すことなど憚かられたに相違ないのであり、相川が訪問予告の電話を何故自宅にかけて来たかと疑わなかつたのも右のような事情を知つていたからであり、相川の妻も、電話であるため、江後、釜賀以外の者からの電話であつても信用するのが当然であり、また、電話をかけた者は、相川の妻も前記のような当時の事情を知つていたから何らかの都合で直接相川に話をし又電話をすることができぬため、相川の妻に連絡したものとも考えられる。旧労の者であれば、直接に相川に電話をすることは、まず、あり得ないし、相川の妻に氏名を明らかにすることもないであろう。

(ハ)  旧労の仕組んだ罠であれば、相川が当日帰らねば、これにかからないことは明らかであるけれども、罠というものは本来そのようなものである。

(ニ)  釜賀は迎えに来た沖田に対し、課長には会い度いと思つていた旨言つたばかりか、相川宅に赴くため自転車をもつて自宅を出てさえいるのであつて、また、雑貨店から電話をかけた後沖田に対し、今日は行かなくてもよくなつた旨述べ、沖田に釜賀が相川に電話した結果その必要がなくなつた趣旨と誤解させるような発言さえしているのであつて、少くとも釜賀に相川宅を訪問する意思があつたことだけは明らかであり、訪問予告電話の存在と釜賀の言動に矛盾はない。

(ホ)  相川は、前記のような釜賀との関係から、相川と相談したいのが釜賀であることを知つていたから、江後については特別気にもとめなかつたのであり、江後なら別に迎えに行かなくても当然一人でこられると考えたのである。相川は釜賀を迎えに行つた際、江後のことまで配慮できず、釜賀との話合でも同人に対する答弁に忙殺され、江後が釜賀と共に訪問する旨の電話があつたことなど忘れていたのが実情である。江後のことを忘れているから訪問予告電話がなかつたというのは誤りである。相川が永松から同人の六月一二日釜賀訪問について報告を受けていた事実はない。

(三) 同(3)について。

釜賀は沖田に同行を断つたのであり、旧労側が相川が釜賀を車で迎えに来る事実まで予測していなかつたにしても、釜賀の行動を把握していなかつたとはいえない。釜賀が旧労に電話をかけたのは、沖田が釜賀宅を訪れた午後八時前頃から幾らも経つていない頃であつたから、それから約四時間を経過した午前〇時過頃になつて旧労が相川宅に勤労の者と偽つて電話をかけたことは、釜賀の行動を把握していたからではないかと疑われても致し方ないし、疑うに足る根拠もある。旧労が釜賀からの電話に対し助言したものの断り切れずに連れて行かれたのではないかと心配しての電話であれば、四時間も経過してから深夜に電話をかけるなど不自然であり、釜賀の行動を把握していたからこそ深夜相川宅に電話し、釜賀に対し旧労が監視していることを知らせて士気を鼓舞し、更に留まるようにとの電話をしたと考える方が自然である。この旧労の電話を相川が切つたとき釜賀が相川に喰つてかかつたこと、その後相川に江後や同僚を呼んでもらいたいと要望したこと、同僚が帰る際一言も帰り度い旨の意思を表明せず居すわつたこと、相川宅を出てから早朝であるのに組合事務所に赴き当夜の行動を報告したこと、早朝であるのに組合に執行委員が居合わせたこと、そして相川に抗議電話をかけたこと等一連の事実は、組合員が当夜の相川の行動を把握していたことを示すものである。

(四) 同(4)について。

釜賀が雑貨店の前で沖田に対して告げた言葉は、相川方には行かなくてもよくなつたという趣旨のものであつた。

(五) 同(5)について。

課長の相川に対しても面と向かつて物を言つてきた釜賀が、帰りたいと言うことさえできなかつたというのは不自然であり、釜賀が江後や永松を呼んでもらつたのは、一晩中相川方に居ることを誰か他の人に見せておきたかつたからである。

(六) 同(7)について。

本件が当初から仕組まれた罠であるかどうかは暫く措くとして、旧労が前記のような相川と釜賀との個人的関係を知つて、これを利用したことだけは明らかである。なぜなら相川と釜賀との関係が課長対従業員といつた関係をこえ釜賀対相川家といつた家族ぐるみの個人的関係にまで発展していたことは旧労の多くの者が知つていたと考えるのが相当であり、釜賀においてなによりもよく承知するところであつたからである。したがつて、釜賀から相川に是非相談したいことがあるといえば、相川がいかなる反応を示すか釜賀はもとより両名の関係を知つている者の熟知するところでもあつた。もし、そうであるとすれば、釜賀が相川に相談したいという電話をし相川宅を訪れなければ、或いは相川が釜賀宅まで迎えに出向くかも知れないということは、相川と釜賀との関係を知る者なら充分想像できることであつたろう。また、釜賀がそのような自負心を持つていたとしても不自然ではない。旧労は午後八時前後すでに沖田が釜賀を迎えに来たことを知りながら、四時間も放置し、深夜一二時過になつて勤労の者と偽つて電話した。この間の四時間を旧労がどのように利用したかは知らないが、釜賀の行動を把握するにつき十分の時間があつた。相川が深夜の電話に対し釜賀のことを考慮し、在宅しない旨答えたのに対し釜賀が抗議非難したこと、その後釜賀が前記のように江後や同僚を呼ぶよう要請したこと、釜賀が相川の発言に対し非難攻撃を加え何ら憚らなかつたこと、徹夜で疲れていた筈の釜賀が朝七時頃には旧労事務所にあらわれ、碇執行委員長に報告し、碇から相川に抗議電話があつたこと等これら一連の事実を客観的に考察すると、罠であるかないかはともかくとして、旧労が相川宅における釜賀を利用しようとしたことだけは明らかであつて、本件は旧労の仕組んだ罠であると解することも可能である。

(証拠省略)

理由

一、本件の再審査申立棄却命令。

熊本地方労働委員会が、参加人組合から昭和三七年六月一四日夜被控訴会社八代工場製造部原液課長相川の自宅における同課長及び参加人組合組合員釜賀間の話合を不当労働行為である旨救済を請求する申立を受け(同労働委員会同年(不)第七号事件)、昭和三八年五月一八日右申立を理由ありと認定して原判決添付別紙(一)記載の主文を第一項とする命令を発したこと、被控訴会社がこれを不服として控訴委員会に対して再審査の申立をしたところ(中央労働委員会昭和三八年(不再)第一八号事件)、控訴委員会が昭和四一年三月一六日原判決添付別紙(二)命令書記載の理由により再審査申立棄却の命令をなし、同命令書が同年四月二日被控訴会社に到達したことは、当事者間に争いがない。

二、被控訴会社、参加人組合、本件関係人並びにその相互の関係について。

(一)  被控訴会社及び参加人組合について。

被控訴会社が肩書地に本店を置き、大阪市に支店を、富山市、佐伯市、八代市、吉原市にそれぞれ工場を有する資本金三一億二千万円の株式会社であつて、パルプ・紙・化繊等の製造販売を主たる業務とし、八代工場はスフ綿、セロフアン原料のビスコース製造をしていること、昭和三七年当時、その従業員数並びに組合員、非組合員別は、およそ次のとおりであつたこと(富山、佐伯、八代各工場は同年一一月いずれも支社と呼称を変更した。)、

従業員数  組合員数  非組合員数

本社(大阪支社を含む)  二九七   二一七   八〇

富山工場         七〇三   六六八   三五

佐伯工場         六九五   六六五   三〇

八代工場       一、三三八 一、三〇八   三〇

富士工場         三五三   三三八   一五

合計         三、三八六 三、一九六  一九〇

これらの従業員は当初各事業場毎に各別の労働組合を結成していたが、昭和二二年単一組織の労働組合である興人労組を結成し、各事業場毎に支部を設け、その後紙パ労連に加盟し、組合の名に紙パ労連の名称を冠することとなつたことは、当事者間に争いがない。

(二)  相川課長について。

相川が昭和三四年一〇月以降被控訴会社八代工場製造部原液課長の職にあり、昭和三八年一月八代支社レーヨン事業部付に転じたことは当事者間に争いがなく、乙第四九号証(熊本地方労働委員会の審問調書中、相川宏遠に対する証人尋問の速記録。以下、中央労働委員会の審問調書中の証人尋問速記録とも、単に「地労(又は中労)証人相川調書」というように略称する。なお、以下の書証の成立は、甲第一一号証を除き、すべて当事者間に争いがない。)、当審証人相川宏遠の証言により真正に成立したと認める甲第一一号証、原審並びに当審における証人相川宏遠の各証言を総合すれば、相川が大正一四年一〇月二八日生であり、大学を卒業して昭和二三年被控訴会社に入社したこと、被控訴会社では課長以上の職制にある者は非組合員とされているため、相川も右原液課長となつてから非組合員となつたが、それまでには興人労組中央執行委員を二期つとめたことがあること、相川の自宅は社宅であつて、八代工場西門(裏門)から構外に出て西へ約一〇〇メートルの距離にあり、社宅群の中にあることが認められる。

そして、昭和三七年六月当時、原液課員は約二五〇名で、同課工務室で二〇名が勤務していたこと、八代工場における課長の権限中、人事に関する権限は、三級職以下の課員の課内異動を決定すること、四級職以上の課員の課外への異動、課員の昇進、賞罰について部長に提案すること、課員の人事考課を行なうこと、部内の調整に参画することであること、相川が原液課長在職中、八代工場と参加人組合との間で行なわれた団体交渉のうち原液課の業務に関連した事項が議題となつた団体交渉に約一〇回出席したことがあつたことは当事者間に争いがなく、乙第六四号証、乙第六六号証、原審証人相川宏遠の証言を総合すれば、原液課長は、八代工場製造部長を補佐し、同工場におけるビスコースの製造及び廃アルカリの供給工程の技術的管理、操業度、品質の維持向上に関する業務を管理することを任務とし、各課長共通の権限として、業務管理、組織管理、前記人事に関する事項その他部下の指導監督等の人事管理、財産管理の権限、予算、報告等、その他諸手続、官公庁等との連絡折衝に関する事項についての権限を有し、原液課長固有の権限として、生産計画に基く工程別生産実施計画を立案検討し、その実施を管理する等の権限を有することが認められる。

被控訴会社は、不当労働行為に関し相川課長の言動はその職務権限からして当然には使用者たる被控訴会社に帰責せしめることはできない旨主張するが、以上のように相川は前記規模の被控訴会社において職制上八代工場原液課長として、課員二百数十名を指導監督し、人事に関する権限のほか同課主管業務について広汎な権限を有しているのであるから、不当労働行為に関しては労働組合法第二条第一号にいう使用者の利益を代表する者であると解するのが相当であるので、相川の言動にして、それが不当労働行為を構成するときは、会社の意思を体してなされたか否かに関わりなく、当然に使用者たる被控訴会社に帰責せしめるべきである。

なお、被控訴会社は、相川の前記団体交渉出席はいわゆる団交要員として出席したものではないと主張し、乙第六四号証ないし第六六号証、乙第一〇五号証(中労証人鈴木調書)、原審証人相川宏遠の証言を総合すれば、被控訴会社の内部規程上、八代工場における団体交渉は課長としては、事務部勤労課長の職務とされ、原液課長の本来の職務とはされていないが、相川が前記団体交渉に約一〇回出席したのは、製造部長を補佐するために出席し、同部長に代つて労働組合側に対して説明、質疑応答をなしていたものであることが認められるけれども、原液課長がどのような立場で団体交渉に出席していたかということは、前記の結論に影響を及ぼすものではない。

(三)  釜賀について。

釜賀が昭和三七年二月五日アルバイトとして被控訴会社に雇い入れられ、原液課工務室に勤務し、同年三月高校を卒業し、同年四月一日社員として採用され、同時に参加人組合に加入したが、その後昭和三八年八月二一日付で業務課に配置換えになつた者で、現在も参加人組合の組合員であることは、当事者間に争いがない。

乙第四八号証(地労証人釜賀調書)、当審証人相川宏遠の証言を総合すれば、釜賀が昭和一八年五月九日生であること、釜賀は前記アルバイト以来原液課の現場事務所である通称工務室に勤務していたが、同工務室には相川のほか係長以下の従業員が執務し、釜賀が唯一人の女子従業員であつたこと、釜賀は社員に採用されてから同課書記となつたが、その担当職務の内容は、原液課全従業員の出勤状況その他諸届の報告取次等の庶務一般、工務室内の清掃準備等であり、その他同室の者のお茶の世話等もしていたことが認められる。

(四)  相川と釜賀との関係について。

(イ)  釜賀の就職についての相川の尽力。

釜賀が高校卒業に際し義兄江後の紹介で相川に就職のあつせんを依頼し、その尽力によつて被控訴会社に就職したことは当事者間に争いがなく、その間の経緯についてみるに、乙第四九号証(地労証人相川調書)、乙第八九号証、乙第九〇号証、乙第九九号証(中労証人相川悦子調書)、乙第一〇五号証(中労証人鈴木調書)、当審証人江後譲の証言、原審並びに当審における証人相川宏遠の各証言を総合すると、被控訴会社は、昭和三七年春に高校を卒業する女子の新規採用につき、前年秋に興国セロフアン株式会社と共同で採用試験を行ない、応募者六七名中より両会社において合計一三名、被控訴会社において内三名の採用を内定していたこと、釜賀は同試験に応募したが、成績が六七名中二三、四番で不合格となつたこと、ところが被控訴会社では女子従業員に予想外の欠員が多く補充採用をする必要を生じ、しかも内三名については早急に就業させる必要があつたため、昭和三七年一月一一日右不合格者中から三名を選び採用を内定したが、その内一名は他に就職先が決まつていたので、更に一名を選考しなければならなかつたこと、釜賀の姉の夫江後(当時二六才位、約二年半の臨時工を経て昭和三四年入社)は原液課浸漬係に勤務していたが、前記昭和三六年秋の女子従業員採用試験に際し、江後の姉婿と懇意の勤労課沼田人事係長を頼つて釜賀の採用に尽力するよう依頼していたが、前記のとおり釜賀が不合格となり、昭和三七年一月になつて沼田から補充採用があるらしいことを知らされ、併せて江後の上司相川課長に依頼した方がよいことを教えられ、同月中旬頃会社において相川課長に対し釜賀の補充採用につき尽力するよう依頼したこと、相川は、かつて江後と偶然話を交わしたこともあり、かねて同人を作業態度も真面目な温順しい部下であると思つていたもので、右依頼を承諾したこと、江後は、その二、三日後の同月二〇日頃釜賀に対し、相川課長に就職について尽力方依頼したから一度行つておいた方がよい旨話し、釜賀を連れて相川を自宅に訪れたこと、相川宅では相川の妻悦子が玄関前で右両名を応待していたところへ相川が会社から帰宅し、江後が相川に釜賀を引合せ、釜賀も相川によろしくお願いしますと言つたこと、相川は釜賀と二、三立話をし、同女からはつきりした性格の健康な人であるとの好印象を受けたこと、そこで、相川は鈴木勤労課長に対し、江後の義妹釜賀は秋の採用試験では不合格となつたが、江後も真面目であり、本人も確りしているから補充採用をして貰いたい旨依頼したこと、同月二四日、前記補充採用者三名中支障者一名の代りの者一名を決定する選考委員会においては、他に会社従業員縁故者で成績も釜賀と同等の者らもいたが、結局、相川課長の推薦のあることが大きい事由となつて釜賀が補充採用されることに決定され、釜賀の補充採用は、いち早く翌日頃、鈴木勤労課長から相川に、相川から江後に、江後から釜賀の父にと正式の通知とは別に伝達されたこと、同月二七日江後は相川の留守宅に魚等を持参して礼に行つたこと、被控訴会社は翌月中にも更に同年春高校卒女子従業員の補充採用試験をしたが、この際は先の定期採用試験不合格者を対象としなかつたこと、同年四月一日新入社員入社式後のパーテイが終つてから釜賀が挨拶のため父を相川に紹介し、父から相川に就職についての礼等を述べたことが認められる。

乙第四八号証(地労証人釜賀調書)、乙第一〇九号証(中労証人中川調書)、原審並びに当審における証人中川ヤツノの各証言中、定期採用試験の面接委員であつた相川が江後を呼びつけ、釜賀が組合に批判的であれば就職はスムースに行くと告げたことがあつたようにいう点、江後が釜賀の補充採用につき世話をし相川が口添えをしたことは知らないとする点、釜賀が相川と会つたのは一月末頃の補充採用決定後であり、補充採用に尽力を願つたのではなく、いわば全く対等の立場で挨拶を交したに過ぎないかのように強調する点等、前記認定に反する部分は、乙第四九号証、乙第一〇〇号証、乙第一〇五号証、当審証人江後譲の証言、原審並びに当審における証人相川宏遠の各証言に照らし、到底信用することができず、ほかに右認定を覆すに足る証拠はない。

(ロ)  釜賀の原液課配置。

乙第四九号証(地労証人相川調書)、乙第一〇〇号証(中労証人相川調書)、乙第一〇五号証(中労証人鈴木調書)、原審証人相川宏遠の証言を総合すると、被控訴会社が前記のように昭和三七年一月中に補充採用をすることに予定した同年春高校卒業女子従業員三名は、硫炭課、業務課、勤労課に各一名配置する予定であつたこと、ところで、当時製造部内の工務室に勤務する女子書記中、原液課の者一名だけが中卒で、他二名は高校卒であつたが、会社は右書記全部を高校卒の者に切換えることを実施中で、原液課の右書記も配置換えが適当な時期になつていたところ、相川は釜賀については前記のとおり補充採用に尽力したものであり、かつ、釜賀が気性も強く二百数十名の原液課員と接触しなければならぬ同課工務室書記としての適性もあると考え、鈴木勤労課長から釜賀の補充採用決定を知らされるや同課長に対して現原液課工務室書記を配置換えして釜賀をその後任者とすることを要望したこと、そこで同課長は右要望を容れ、原液課にいた中卒の書記を勤労課に配置換えをし釜賀を原液課に配置するようにしたこと、釜賀のアルバイト勤務以来、相川は、工務室の最年少最新参の、又唯一人の女子従業員として釜賀に好感を持ち可愛がつていたことが認められ、これに反する証拠はない。

(ハ)  相川が釜賀の身元保証人になつたこと。

釜賀が被控訴会社社員として採用された際、相川が釜賀の依頼により同人の身元保証人となつたことは当事者間に争いがなく、その間の経緯については、乙第一六号証、乙第四九号証(地労証人相川調書)、乙第八九号証、乙第九二号証、乙第九四号証、乙第九九号証(中労証人相川悦子調書)、乙第一〇〇号証(中労証人相川調書)、乙第一〇五号証(中労証人鈴木調書)、乙第一一一号証(同上)、当審証人江後譲の証言、原審ならびに当審における証人相川宏遠の各証言を総合すると(但し、乙第四九号証、乙第九九号証、第一〇〇号証、原審証人相川宏遠の証言中、後記採用しない部分を除く。)、被控訴会社では従業員の入社に際し身元保証人二人を立てさせることにしていたが、慣例上、内一名は社内の者としていたこと、釜賀が昭和三七年四月一日入社した直後頃、勤労課人事係員鬼塚正年が釜賀らに対して身元保証書の提出につき身元保証人の選定等の説明をした際、鬼塚は相川課長が釜賀の補充採用に尽力したことを知つていたため、釜賀に対して、相川課長の推薦で採用されたのだから同課長に相談したらどうかと告げたこと、そこで相川課長になつてもらおうと考え、同月四日会社で終業後同課長に対し身元保証人依頼のため同夜実兄を伴ない相川宅に伺いたい旨申し出て都合を聞いたうえ、実兄でなく義兄江後に同行を依頼し、同夜午後七時頃江後と共に相川宅を訪問し相川から身元保証人になることの承諾を得たこと、釜賀と江後は相川宅に少なくとも一時間は居り、その間相川の妻悦子が同席したこともあつたが、釜賀は初め依頼の言葉を述べた後は殆ど相川の子供の相手をして遊んでいたこと、ところで、被控訴会社では新入社員の入社に際し直属上司である課長がただ上司であるとの故をもつてその身元保証人になる事例は挙げ難く、何らかの縁故によつて課長の職制にある者が新入社員の身元保証人になる事例も少なく、江後も当然釜賀の姉婿である自分が社内の者として身元保証人となるであろうと家人らとも話合つていた程であること、相川は前記のような釜賀の採用、原液課配置の経緯から釜賀の依頼を承諾し、その頃釜賀の身元保証書に釜賀との続柄を知人と記載し、身元保証人となつたこと、右身元保証書には、本人が会社に提出した、就業規則等会社の定めを誠実に守り、上長の指示命令に従い、会社の名誉信用の向上を心がけ、会社に損害を及ぼす行為をしないこと等を記載した誓約書の趣旨に従い連帯責任を負う旨記載したものであるが、実際上は身元保証人が会社から財産上の責任を追及された事例は挙げ難く、ただ、本人の勤務状態について身元保証人からも本人に注意を与えるよう促す程度のものであること、当時相川は既に数人の者の身元保証人となつていたが、それらの者の内釜賀のほかにも後記組合分裂により新労に移らなかつた者もあることが認められる。

乙第四九号証、乙第九九号証、乙第一〇〇号証、原審証人相川宏遠の証言中、釜賀が相川に身元保証人を依頼し同人方を訪問した月日の点は、乙第八九号証、乙第九二号証に照らし採用できず、乙第四九号証、乙第一〇〇号証中、右訪問につき釜賀が用件、訪問時刻等を予め申出なかつたようにいう点は、原審証人相川宏遠の証言に照らし採用できない。

乙第四八号証(地労証人釜賀調書)、乙第一〇九号証(中労証人中川調書)、原審証人中川ヤツノの証言中、釜賀が鬼塚から相川が前もつて鬼塚に対し釜賀の身元保証人になつてもよい旨表明していたことを聞いたという点、同僚新入社員につき課長係長の職制にある者が身元保証人になつたものが多く、これが通常の場合であるかのようにいう点は、乙第一六号証、乙第一〇五号証、原審証人相川宏遠の証言に照らし到底信用することができず、ほかに前記認定を覆すに足る証拠はない。

(ニ)  その他釜賀の相川宅訪問等。

乙第四九号証(地労証人相川調書)、乙第八九号証、乙第九一号証、乙第九三号証、乙第九九号証(中労証人相川悦子調書)、乙第一〇〇号証(中労証人相川調書)、当審証人江後譲の証言、原審並びに当審における証人相川宏遠の各証言を総合すると、釜賀は前記(イ)、(ハ)のとおり補充採用尽力方の依頼、身元保証人の依頼のため相川方を訪問したほか、昭和三七年三月二四日夜原液課の送別会が終つてから同課の者数名と共に相川方に立寄り、接待をする相川の妻悦子を手伝つたりしたことがあつたが、それまで、このようなとき同課工務室の女子書記で同僚と共に相川課長宅を訪れた者はなかつたこと、同年五月一四日昼頃相川の不在中、釜賀は父の葬儀の答礼のために相川宅を訪問し、高校及び職場の先輩でもある悦子と話合い、相川の子供のアルバムを見せられたりして時を過ごし、約二時間後に辞去したことがあり、釜賀は日頃江後に対しても、相川課長からその留守中でも自宅に遊びに来いと言われている等江後の思つていた以上に相川の家人とも親しくしていることを告げていたこと、その他にその頃釜賀が相川宅を訪問したのは相川の用事で二、三度会社から使いに行つた位であることが認められる。

乙第四八号証(地労証人釜賀調書)、乙第一〇九号証(中労証人中川調書)、原審証人中川ヤツノの証言中、前記認定に反し、前記(イ)、(ハ)の各訪問、送別会の日の訪問以外に相川方を訪問したことを極力否定しようとする点は、乙第四九号証、乙第九九号証、乙第一〇〇号証、原審並びに当審における証人相川宏遠の各証言に照らし到底信用することはできず、ほかに前記認定を覆すに足る証拠はない。

(五)  本件当時の労使双方等の状況について。

興人労組が昭和三七年三月二日被控訴会社に対して一律六、〇〇〇円の賃上げ、年間一時金等七項目の要求をしたが、被控訴会社が同月二七日組合員一人平均一、六三六円(会社計算)賃金引上等の回答しかしなかつたこと、そこで興人労組はこれを不満とし、翌二八日第一波二四時間全面ストに突入し、以後全面スト、部分スト、時限スト、時間外勤務拒否等の争議行為を反復し、同年五月一八日から無期限ストを実施するに至つたこと、これに対し被控訴会社は同年六月九日佐伯工場の、同月一一日八代工場の各ロツクアウトを行なつたこと、同月一〇日から一一日にかけて興人労組富山支部、本社支部、富士支部の全組合員、佐伯支部の大部分の組合員が興人労組から脱退し、それぞれ別の労働組合を結成したこと、次いで同月一二日八代支部では約七〇〇名が参加人組合を脱退して新労を結成し、同年七月現在で参加人組合の組合員数が二九一名に減少し、新労の組合員数が一、〇〇〇名を超すに至つたこと、同年六月一二日の右分裂当時、原液課の課員二百数十名中、新労組合員は一三六名で、ほかに約四〇名が新労加入の意思を有していたが、同課工務室では課員二〇名中、参加人組合にとどまつていたのは釜賀一名で、他は全員新労に加入したこと、被控訴会社は、富山支部が興人労組を脱退した際、「この段階における会社の態度としては、力による要求獲得のみを目的とし、既に統制力を失なつた現中闘は、会社の交渉相手としては不適格であると断定せざるを得ない。」という趣旨を盛つた会社声明を発したこと、被控訴会社八代工場においては、同月一二日八代工場で新労が結成されるや、同工場長田川知昭が、「八代工場においても、良識ある従業員が結集して、本日興国人絹パルプ八代労働組合が結成されたことは誠に喜びに堪えない。会社は、新しく結成された興国人絹パルプ八代労働組合を承認する。」という趣旨の声明を発し、新労結成後、直ちに同工場長と新労との交渉が行なわれ、新労の承認、労働協約の締結、就労等についての協定がなされ、翌一三日午前五時に新労の組合員は工場内に籠城、就労を始めたこと、他方、旧労は同日無期限ストを解除したが、被控訴会社は新労からの申入もあつて旧労に対するロツクアウトを解除せず、同月一五日八代工場長、新労執行委員長、旧労支部長の三者によりロツクアウト解除に当つての申合をしたうえ、同月一六日午前一〇時旧労に対するロツクアウトを解除したこと、その後同月一九日までは各職場ごとに懇談会を開き、就労の準備をし、旧労の組合員が実質的に就労したのは同月二〇日過ぎであつたことは、当事者間に争いがない。

そして、甲第五号証、甲第六号証、乙第四九号証(地労証人相川調書)、乙第一〇〇号証(中労証人相川調書)、乙第一〇二号証(中労証人三浦調書)、乙第一〇五号証(中労証人鈴木調書)、原審並びに当審における証人相川宏遠の各証言を総合すると、被控訴会社八代工場は、新労結成直後の交渉により新労加入者が前記約七〇〇名、加入見込者を加えると少くとも一、〇〇〇名となることを把握し、各職場でもその人員を点検し、部課長全員同月一二、一三日と連続して会社に泊り込みで以上の人員(但し、その内女子従業員は直接生産要員に計上せず。)による操業再開につき、同月一三、一四日機械整備、一五日試運転、原料パルプ仕込み四分の一、その後順次二分の一、フル生産の計画を立てたが、相川は頭初工程担当の原液課の課長として、同月一二日から仮眠をとる程度で右生産再開準備に没頭していたが、同一四日昼過ぎ、その計画案も出来、同日夜から部課長は半分づつ交替で帰宅することとなつたこと、新労は、当初加入者約七〇〇名以外の加入希望者約三〇〇名中、差支えにより結成大会に参加出来なかつたが新労結成の契機であつた同月上旬の八代支部臨時大会要求署名に参加した者等新労加入が当然とされる者を除く約二〇〇名については、資格審査をしてから加入を認めていたが、同審査は新労の運営を阻害する者の混入を防ぐためになしていたものであつて、同審査によつて不適格とされる者が多数に上ることは予測されて居らず、実際にも同審査を受け終つた者は全員適格とされて加入を認められており、被控訴会社も右加入見込者約三〇〇名の者をも既に加入している者と同視して前記操業再開計画を立てたものであり、同月一五日現在その人員は約一、〇七四名に達していたこと、その後新労組合員数の若干の減少もあつたが、同年一一月七日現在でその減少数は僅か約三〇名に過ぎないこと、前記被控訴会社及び八代工場長の各声明は、いずれも新労を歓迎する趣旨を表明したものであるところ、課長たる相川は、これらの声明を体し、原液課工務室の従業員中一人だけ旧労にとどまつていた釜賀も同僚との折合からも新労加入が望ましいと考えていたことが認められ、原審証人田川知昭の証言中、八代工場長の声明の趣旨に関する部分は甲第六号証の記載内容自体に照らし信用できず、ほかにこれに反する証拠はない。

他方、釜賀についてみると、乙第五二号証(地労証人永松調書)、乙第一〇九号証(中労証人中川調書)、当審証人江後譲の証言を総合すると、かねがね原液課工務室において釜賀の直接の上司である課長付(係長待遇)永松らが争議についての論議をしていたときには、釜賀は同室で最年少、最新参の女子でもあるので、これに加えられないでいたこと、釜賀は前記五月一八日無期限スト突入後は一週間程保安要員として工務室に出勤していたが、その後は終始参加人組合の方に出ていたため、六月一四日まで相川と職場で会うこともなく、又、保安要員として出勤しなくなつた頃から永松とも殆ど会つていなかつたこと、永松は同月一二日夜、釜賀に新労に入つて貰いたいため釜賀の自宅に赴き、一時間位釜賀と話合い、分裂の経過を説明し、釜賀に翻意するよう種々説得したこと、釜賀の義兄江後は、同月一四日現在新労加入届をしていたけれども、まだ入構就労していなかつたが、同月に入つてから釜賀と殆ど会つていなかつたことが認められ、これに反する証拠はない。

又、乙第六九号証、乙第七〇号証、乙第一〇五号証(中労証人鈴木調書)を総合すると、新労、旧労各組合員間の感情的な対立は六月一三日頃が最も激しく、新労側女子職員の退社の際旧労の者が誹謗するような若干の摩擦もあつたが、その後は、このような事例も見られなくなつたことが認められ、乙第一〇七号証(中労証人碇調書)中これに反する部分は信用せず、ほかにこれに反する証拠はない。

なお、当審証人中川ヤツノの証言中、釜賀が保安要員として出勤中相川が勤務時間内に従業員が署名運動に関する仕事をしているのを黙認して組合分裂工作に加担していたかのようにいう点は、乙第一〇三号証(中労証人田口調書)に照らし信用できず、更に、乙第四八号証(地労証人釜賀調書)、乙第一〇九号証(中労証人中川調書)、乙第五五号証(地労証人藤田調書)、原審並びに当審における証人中川ヤツノの各証言中、被控訴会社が組合分裂に際し新労側に組し、金銭上の援助等をなして分裂工作をしたとする点は、首肯するに足る根拠を全く欠き、いわば憶測に基づく見解を述べるに過ぎないものであつて、信用に値いしない。

三、相川の本件の言動について。

(一)  訪問予告電話。

乙第四九号証(地労証人相川調書)、乙第九九号証(中労証人相川悦子調書)、乙第一〇〇号証(中労証人相川調書)、当審証人江後譲の証言、原審並びに当審における証人相川宏遠の各証言(但し、後記信用しない部分を除く。)を総合すると、相川の社宅には会社内部専用の電話だけが架設されており外部との通話は不能であつたこと、昭和三七年六月一四日午後相川が前々日一二日から会社に泊り込み中でいたところ、二時頃その留守宅に電話があり、妻悦子が出たところ、通話者の名を聞きとることができなかつたが、聞いたことのあるような男の声の者から、「今晩江後さんと一しよに釜賀さんが見えますから。」という訪問を予告する趣旨の電話があつたこと、そこで、悦子は直ちに会社にいる相川に電話で連絡し同夜帰宅するかどうかを確めたところ、相川が前夜は非番であり帰宅する旨の返事をしたこと、相川は、前日一三日朝から既に原液課工務室従業員二〇名中釜賀一人を除く男子一九名が新労に加入して就労しており、新労、旧労組合員間に感情的対立もあつたので、就労を控えて相談に来るのであろうと推測したこと、現在に至るまで相川方に右電話をした者が誰であるかは不詳であること、なお、江後は、その頃釜賀のことで相川課長に相談に行きたい旨相川又は他の者に言つたことはなく、釜賀からもそのようなことについて何の話も受けていなかつたことが認められ、原審証人相川宏遠の証言中右電話のあつた時刻を午後四時頃とする点は乙第九九号証に照らし採用できず、原審並びに当審における証人相川宏遠の各証言中、江後が釜賀のことで相川課長に相談に行きたいと言つていたとする点は、当審証人江後譲の証言に照らし信用できない。

控訴委員会は、右訪問予告電話をかけた者の氏名が明らかでなく、当時相川が社内籠城中で新労組合員(江後も新労組合員)と共に生産再開準備に忙殺されていたところ、江後が釜賀と共に相川宅を訪れるような経緯が認められないことを主張し、電話連絡の件は疑わしいといい、更に補助参加人組合は右電話が相川宅にかけられた事実は存在しなかつたと主張するが(前記参加人組合主張四、(2)、(イ)ないし(ヘ)、)前記のような相川と釜賀との関係並びに組合分裂に関する状況からすれば、同夜、釜賀が江後と共に相川課長を自宅に訪問するとしても、そのこと自体については、相川が来訪目的として予測したところも有り得べきこととして十分に首肯できるのであつて、控訴委員会並びに参加人組合のこれらの推論は、いずれも直ちに右電話が相川宅にかけられた事実の存在を疑わしめるに足るものではない。

(二)  沖田義昭(以下、沖田という。)が釜賀を迎えに行つたこと。

前示甲第一一号証、乙第四八号証(地労証人釜賀調書)、乙第四九号証(地労証人相川調書)、乙第五一号証(地労証人沖田調書)、乙第五四号証(地労証人桑原調書)、乙第一〇三号証(中労証人田口調書)、乙第一〇九号証(中労証人中川調書)、原審証人相川宏遠、当審証人沖田義昭、同中川ヤツノの各証言を総合すると(但し、乙第四八号証、乙第五四号証、乙第一〇九号証中、後記信用しない部分を除く。)、相川は当日午後六時頃帰宅し、夕食を済ませ、横になつて釜賀らの来るのを待つていたところ、籠城中の原液課工務室調査係員沖田(当時三〇才)が相川宅から西へ一〇〇メートル程の所にある新労事務所に単車で行き所用を済ませた帰途、午後七時半頃、相川宅に相川が会社に置忘れた万年筆ケースを届けに立寄つたこと、その際沖田は相川から釜賀が来宅するというので疲労にも拘らず寝ずに待つていることを話され、単車で十数分位の距離にある釜賀の自宅まで釜賀を迎えに行くことを引受け、直ちに釜賀方に赴き午後八時頃着いたこと、ところが釜賀が外出中であつたため一たん引返したが、相川から江後も来るということは聞かされてはいなかつたけれども、或いは外出先が義兄江後方でないかと思いつき再び釜賀方に戻り江後宅の所在を聞いているところへ釜賀が帰宅したこと、そこで沖田は釜賀に対し今日は課長の家へ行くようになつていたのではないかと尋ねると、釜賀はこれに即答しなかつたが、暫くしてから、私も課長と会つて話したい、工務室の人とも話したいと言つて同行することにし、実兄に相川課長宅に行くことを告げた上、外出のためレインコートも用意して自転車で単車の沖田と家を出たこと、午後八時頃、釜賀は自宅から程遠くない所の雑貨店の前で、電話をかけるからと言つて沖田を待たせ、雑貨店から旧労事務所に電話をし、役員の藤田か碇を呼び出すよう頼んだところ、事務所に詰めていた桑原が電話に出て右両名の不在を告げたこと、当時釜賀は電話の相手が誰であるかを知らなかつたが、桑原に対し課長の使いで沖田が迎えに来ていることを告げて相談をした結果、相川方には行かぬことに決め、沖田に対し右電話先をかくしたまま今日は行かなくても良くなつたと告げたこと、右電話の内容を知らなかつた沖田は、釜賀からこのように言われたため釜賀が相川と連絡をとつたものと誤信し、一人で引返そうとしたところ、釜賀から話をしようと引止められ、同所で一時間近く釜賀が組合分裂に関し新労を非難し、沖田がこれに応答したりして話合つていたこと、その際の釜賀の沖田に対する態度は従来と一変して突つ慳貪であつたことが認められる。

乙第四八号証、乙第五四号証、乙第一〇九号証中、釜賀が自宅を出る際既に切崩工作と思い沖田に対し相川方に同行することを断つた、明日にしてくれと言つた、或いは相川の方から出向いてくれと言つたとする点は、乙第五一号証、当審証人沖田義昭の証言に照らし信用できない。

(三)  相川が釜賀を迎えに行つたこと。

乙第四九号証(地労証人相川調書)、乙第五一号証(地労証人沖田調書)、乙第一〇〇号証(地労証人相川調書)、当審証人沖田義昭の証言、原審並びに当審における証人相川宏遠の各証言を総合すると、相川は、先に訪問予告の電話を受けており、しかも沖田が迎えに行つたままであるので寝ることもできず待機していたが、時間が経つても沖田が釜賀を伴なつて戻つて来ず、又、几帳面な沖田から何の連絡もなかつたので放置することも出来ず、釜賀の話を聞き、釜賀不在の折場合によつては前に訪れたこともある釜賀方家人にも会つて釜賀のことを話合つて早く事を処理した上就寝したいと考え、午後九時前頃タクシーで自宅から釜賀方に出向いたところ、丁度帰宅した釜賀の実兄から、釜賀が相川方に行くと言つて会社の人と出かけたが今近所で話をしている旨教えられ、前記雑貨店の前までタクシーで廻り、同所で沖田と話をしていた釜賀に対し同乗を促したところ、釜賀は素直にこれに応じて自転車を附近に置いてタクシーに同乗し、相川方に行く車中では相川に対し皆と話をしたかつた旨話していたこと、なお、相川は釜賀が前記のように同人自身のことで相談に来るものと考えており、江後は従前の経緯からみて単なる附添として一しよに来ることを予告していたに過ぎないと考えていたため、江後方には寄らず、そのまま自宅に直行したことが認められる。

乙第四八号証(地労証人釜賀調書)、乙第一〇九号証(中労証人中川調書)中、相川が語気荒く恐かつたので同乗を断われなかつたとする点は、乙第四九号証、乙第五一号証、当審証人沖田義昭の証言、原審並びに当審における証人相川宏遠の各証言に照らし誇張が甚だしく信用することはできない。

控訴委員会は、当日疲れ切つていたはずの相川が自らタクシーで迎えに行くなどということは経験則に反することではないかというけれども、上叙相川と釜賀との関係並びに六月一四日午後の訪問予告電話後の経緯によれば、訪問の予告のなされていた釜賀につき相川が車で疲れた身体をおして迎えに行つたと認定することをもつて強ち経験則に反するということはできない。

(四)  午後九時過ぎ頃から午後一二時頃までの相川と釜賀との対談。

乙第四八号証(地労証人釜賀調書)、乙第四九号証(地労証人相川調書)、乙第一〇〇号証(中労証人相川調書)、乙第一〇九号証(中労証人中川調書)、原審証人中川ヤツノ、同相川宏遠の各証言を総合すると(但し、乙第四八号証、乙第一〇九号証、原審証人中川ヤツノの証言中、後記信用しない部分を除く。)、相川は同日午後九時過頃釜賀と帰宅し玄関脇応接間に入り、暫らくぶりに会つたことについて言葉をかわした後、相川から相談があるのではないか、保証人でもあるから相談するよう口を切り、午後一二時頃まで対談したこと、しかし、話が本筋に入ると、その内容は相川の予期に反して相談をするというようなものでなく、釜賀が就職以来世話になつて来た上司或いは年長者である相川に対し何ら憚るようなことはなく、一方的に、しかも徹底的に自説を主張し、「組合分裂は一部出世主義者の策動及び会社の工作による。組合大会に酒気を帯びて来る組合員があり、貸切バスで組合員が温泉に行つているが、会社が従業員に酒を飲ませ、金をばらまいている。」等会社側ないし新労を激しく非難するのに対し、相川が釜賀に対し終始釜賀の挙げる諸事実が無根であることを一つ一つ説明し、その誤解をとく努力をしたが、釜賀は旧労側で伝聞していたことは全て真実であると信じ込み、相川の説明を受けつけないで一歩も引かず自説を変えなかつたので、このような釜賀と、釜賀の態度が激越であるとの気持を抱きながらも釜賀の就労後の同僚との折合等を気づかう相川との見解の対立は激しくなるばかりであつたこと、そして、釜賀が新労幹部を会社の犬呼ばわりし、新労に入つている同僚をも誹謗して敵意を示したのに対して、相川も釜賀の反省を促がすため、釜賀が信頼している旧労幹部の名を挙げて個人攻撃をしたこともあつたことが認められる。

乙第四九号証(地労証人相川調書)によれば、相川の妻悦子が右の頃釜賀に対して、「あなたもよく考えなさいよ。」という趣旨の発言をしたことが窺われるが、それが相川が釜賀に対し新労加入を勧誘し、かつ、その際これに同調してなした発言であると的確に認めるに足る証拠はない。

乙第四八号証(地労証人釜賀調書)、乙第一〇九号証(中労証人中川調書)、原審並びに当審における証人中川ヤツノの各証言中、同夜の相川の釜賀に対する発言として、「永松から釜賀の意見を聞いた。」、「旧労に残つているのが不思議だ。旧労に残る必要はない。」、「部課長会議でも釜賀が旧労に残つていることが評判だ。」、「釜賀の抗議した事実は、もつともである。」、「旧労に好きな人がいるのか。」、「こつち(新労)に来ないなら身元保証人をやめる。退職してくれ。」、「新労に入るなら資格審査もスムースにしてやる。」等の発言があり、威圧的に脅かし、端的に旧労脱退新労加入を強要したかのようにいう点は、右乙第四八号証、乙第一〇九号証、原審並びに当審における証人中川ヤツノの各証言を通じ明らかなように、補充採用されるに至つた経緯、相川が身元保証人になつた経緯、従前の相川方との親近の程度等について悉く相川とは特に密接な関係はないように強調し、或いは葬儀の答札に相川方を訪れたこと自体まで否定しようとしている反面、相川が釜賀の補充採用前に反組合的言辞を江後に告げたという事実無根のことまでも易々として附け加えていること等からすれば、その信用性は決して高いものとはいえず、他方、乙第四九号証(地労証人相川調書)、乙第一〇〇号証(中労証人相川調書)、原審証人相川宏遠の証言が、当時原液課長として課員二百数十名を統率し特に分別に欠ける者であるとも考えられない相川と、高校を卒業して間もなく、勤務を始めて組合員となつてから日も浅い一九才の女子従業員である釜賀との対談の内容に関する供述として、比較的合理的でもあり、自然な点がより多いのに対比しても、右釜賀の供述は、そのままこれを信用して右相川の供述を否定する資料とはなし難く、ほかに相川が露骨に新労加入を強要する発言をしたことを首肯するに足りる証拠はない。

(五)  午後一二時頃の電話について。

乙第四八号証(地労証人釜賀調書)、乙第四九号証(地労証人相川調書)、乙第九九号証(中労証人相川悦子調書)、乙第一〇〇号証(中労証人相川調書)、原審証人相川宏遠の証言、弁論の全趣旨を総合すると、午後一二時頃、相川と釜賀の話はとぎれ、相川も釜賀を帰宅させることを考えていないわけではなかつたところ、旧労の者が名を偽つて相川方に電話をし、電話に出た相川に対し、「勤労(勤労課のこと)の者ですが、釜賀さんいますか。」と言つて釜賀の所在を確めたこと、相川は咄嗟の警戒心からこれを否定する返事をして電話を切つたこと、すると、相川が応接間の傍で電話の応答をしていたのを聞いていた釜賀は、相川が応接間に戻るや強い剣幕で相川を難詰し、釜賀の態度を咎めに入つた相川の妻悦子にも喰つて掛かつたこと、そして相川と釜賀は暫くの間押問答を続けたが気まづくなり、悦子が新たに飲物を用意し、これを飲む等するうち、相川と釜賀は沈黙し合つたまま翌一五日午前一時頃までを過ごしたこと、なお、右電話は旧労の誰が、どのような目的からかけたのか未だに明らかにされていないことが認められ、これに反する証拠はない。

乙第四八号証(地労証人釜賀調書)中、相川の妻がその頃カーテンを締めたことにつき、これは右電話があつたため旧労側青行隊の巡回を心配して締めたとする点は、乙第九九号証(中労証人相川悦子調書)に照らし信用できない。

(六)  工務室の者四名、江後らの来宅。

乙第四九号証(地労証人相川調書)、乙第五一号証(地労証人沖田調書)、乙第五二号証(地労証人永松調書)、乙第一〇〇号証(中労証人相川調書)、乙第一〇三号証(中労証人田口調書)、原審証人中川ヤツノの証言(但し、後記信用しない部分を除く。)、当審証人江後譲の証言、原審並びに当審における証人相川宏遠の各証言を総合すると、同日午前一時前後頃になつて、釜賀から義兄江後に会いたいから同人を呼んで貰いたい旨申し出たこと、そこで相川が会社で籠城中の沖田に電話をかけ、釜賀が江後に会いたいと言つているので江後を呼びに行くことと釜賀方家人に釜賀が相川方に居ることを伝言することを依頼したこと、相川と釜賀は江後の来るのを待つていたが、そのうち釜賀が工務室の者とも話したいと考え、相川に工務室の者と話をしたいから呼んでほしいと申し出たこと、相川は深夜工場で就寝中の者を呼出すことをためらつたが、結局この希望も容れ、釜賀が特に会い度い者の名を挙げなかつたので、釜賀の反対もないまま相川において工務室の課長付の若い者として、永松(係長待遇、昭和二七年入社、大学卒、当時三二才)、田口保(昭和二三年七月入社)、佐田某、永野某の四名を指名して来宅を求める電話連絡をしたこと、午前二時前後頃右四名が連立つて相川方に来たこと、相川は四人の者に対し釜賀が同人らと話合いたいというので呼んだが話合つてくれと言つた後、専ら傍で四人の者と釜賀の話を聞いていたこと、ところが釜賀は工務室の人と話したいと言つて四人の者を呼んで貰つておきながら、これらの者に対して、「新労に入つて正しかつたと思うか。」、「現在よかつたと思うか。」等一方的に詰問的な質問をしただけで、四人の者は、とぎれ勝ちに、一人づつ、新労結成ないし新労加入に至つた事情、労働組合の在り方、過去の組合運動で家族を心配させたこと等各自の見解や体験談を述べ、要するに新労結成ないし新労加入を肯定する話をしたこと、他方、相川から江後の迎え等を頼まれた沖田は単車で江後方に行き、就寝中の江後を起こして同人を単車の後に乗せて釜賀方に廻り、江後が釜賀の母を起こして釜賀が相川方に居ることと江後もこれから相川方に行くことを告げた上、午前三時頃相川方に着いたこと、江後らを出迎えた相川は江後に対し、釜賀が工務室の人を呼んでくれと言つたので来て貰つていると告げ、江後と沖田は釜賀と工務室の者四名とが居る応接間に入つたこと、右四名が、とぎれ勝ちながら前記のような話をしていたところ、釜賀は話の途中で頭を下げ腕を組み、聞いているのか聞いていないのかも判らないような態度であつたこと、江後は、釜賀が深夜右四名の者を話がしたいと呼んで貰つておきながら、このような態度をとつているので義兄として済まなく思つて目頭を熱くし、お前ももう一寸考えんかと言つたこと、終には釜賀が右四名の者と話合をする様子もなく、話もとだえたので、相川が促し、右四名と沖田は工場に帰つたこと、その際釜賀は帰ろうとする様子も示さず、相川も釜賀が江後と会いたいと呼んでいたので同人と何らかの話をするのであろうと思い、釜賀には帰るよう促さなかつたことが認められる。

乙第四八号証(地労証人釜賀調書)、原審並びに当審における証人中川ヤツノの各証言中、工務室の者らが来る前に相川が釜賀に対し、戦時中に闇米を食べずに餓死した人の話をし、君なら食べるかと問答したことがあり、又、この頃相川が釜賀に対し慎重に考えよと新労加入を示唆し、相川の妻悦子も釜賀に対して釜賀が偏見的だと言つたとする点、釜賀が他の者に来て貰つたのは疲れて眠く帰りたかつたので帰る機会を作りたいためでもあつたとする点、工務室の者らが帰るときも釜賀も帰りたくて、その支度をしようとしたが、相川が釜賀には帰つてもよいというような態度を示さなかつたために帰ることができなかつたとする点は、乙第四九号証(地労証人相川調書)、乙第五二号証(地労証人永松調書)、乙第一〇〇号証(中労証人相川調書)当審証人江後譲の証言、原審並びに当審における証人相川宏遠の各証言に照らし信用しない。

(七)  その後の経過について。

乙第四八号証(地労証人釜賀調書。但し、後記信用しない部分を除く。)、乙第四九号証(地労証人相川調書)、乙第九九号証(中労証人相川悦子調書)、乙第一〇〇号証(中労証人相川調書)、原審証人相川宏遠、当審証人江後譲の各証言を総合すると、工務室の者らが帰つてから、相川や江後の予期に反して釜賀は江後と話をするわけでもなく、相川、釜賀、江後の三名は取り立てて話という程の話もしないでいたが、相川方ではタクシーを呼ぶため暫く待つように言つて釜賀と江後の二人を待たせ、同日午前六時頃タクシーを呼び二人をこれに乗せて帰したこと、釜賀と江後は、まず江後方に車を廻して江後が帰宅した後、次いで釜賀は旧労事務所に寄り、同夜の顛末を知らせたこと、午前七時半頃旧労の役員碇友男が相川の自宅に電話をし、相川に対して、「釜賀さんを罐詰にしやがつて不当労働行為だぞ。」という趣旨のことを言つたこと、翌月上旬新聞等に相川の本件の言動が報道されたことが認められ、乙第四八号証(地労証人釜賀調書)、乙第一〇九号証(中労証人中川調書)、当審証人中川ヤツノの証言中、工務室の者らが帰つてから相川が釜賀に対し、再び旧労脱退新労加入をすすめ、第二(新労のこと)に入れてやれる(資格審査を通るようにしてやるとの意味)と思うと言い、今日は組合(旧労)を休めと言つたとする点、相川が江後に対し釜賀に辞めて貰うのが一番よいと思うと言つたとする点、江後が相川に自分が辞めると言い出し、相川がこれを宥めたとする点、釜賀が相川に対し、帰してくれと頼み、又、自信がなかつたので、もう一日考えさせてくれと言つて辞去したとする点は、乙第四九号証(地労証人相川調書)、当審証人江後譲の証言に照らし信用できない。

四、不当労働行為の成否。

上叙本件事実関係に基づいて、前説示のとおり被控訴会社のいわゆる利益代表者である相川について、不当労働行為の成否を検討するに、相川は、被控訴会社八代工場製造部原液課長の職制にある者として新労を歓迎する会社の意を体し、その理由はともあれ釜賀の新労加入が望ましいと考えていた者であることは否定すべくもない。

しかしながら、

(1)  相川は単に課長対一課員という関係から釜賀と本件の話合をするに至つたものではなく、両者間のそれまでの密接な関係から話合が持たれたのであり、しかもこの話合は相川から積極的に釜賀に呼びかけて持たれたものではないのである。すなわち、釜賀は縁故を頼つて被控訴会社に入社したのであるが、偏に相川の尽力によつて補充採用入社をみるに至つたといつても過言ではなく、正式採用前のアルバイト勤務の時から相川の嘱望により特に相川のいる原液課工務室に配置され、同課書記の仕事として毎日同課長の雑用もし、同課長から日頃年少の、又職場で唯一人女子である従業員として可愛がられ、所属の課長が新入社員の身元保証人になるのは稀であるのに相川に身元保証人になつてもらい、このようなことから幾度か相川宅を訪問し、同年五月一八日無期限スト突入の直前頃には被控訴会社に勤め初めてから僅々三ケ月程というのに所用の際とはいえ相川の留守宅で相川の妻とも相当歓談する位親しくしていたのであり、この間相川のみならず釜賀においても相互に使用者たる会社の利益代表者たる課長、労働者たる一課員と意識して接触していたことはなく、職場の内外を通じて、いわば庇護する者とされる者の親密な関係にあつたといえる。したがつて、本件当日、釜賀が江後と一しよに来宅する旨の連絡を受けた相川が、当時原液課工務室の二〇名の従業員で一人だけ新労に加わつていなかつた釜賀が訪問するというのは、釜賀が旧労の就労を間近にして、これまで来宅したときのように義兄江後に同行して貰つて相談に来るのであろうと予期したのも当然であつて、又、右連絡が釜賀の意向を伝えて来たものと信じて疑わなかつたのも尤もなことである。相川が同夕帰宅後二日間にわたる工場籠城で疲労しながらも就寝もせず釜賀の来宅を待ち、迎えにやつた沖田の帰宅が遅いからと自ら迎えに行き、釜賀の相談に乗ろうとしたことも、釜賀に対する従来からの好意から出たものであることを否定し切れるものではない。従つて相川と釜賀との本件話合の場は、相川の方から釜賀に対し積極的に呼びかけて持たれたものではないと認められるのである。

(2)  また、本件当夜、釜賀が相川と話合う機会を持つたこと自体は、何ら釜賀の意思に反するものではなく、むしろ同夜釜賀自らも無期限スト突入の頃から話合の機会のなかつた相川課長や工務室の者らと話合いたかつたとさえ、その希望を表明していたところであるのである。相川が深夜釜賀方家人に釜賀の在宅することを連絡したことだけで若い女性に課長宅で徹夜させたことが道義上の非難に値いするか否かは別論として、これを以つて控訴人のいうように相川が課長たるの地位を利用して無理に釜賀を徹宵して自宅にとどめたとはいえず、むしろ、相川は釜賀に帰宅を促さなかつたにせよ同夜組合分裂問題の議論で相川に対して全くひるむところのなかつた釜賀において特に辞去を申出ることを阻むような事情も認められないのに辞去する意思を表明せず、かえつて、深夜就寝中の多数の者を態々呼び出すことを求め相川が釜賀の希望を容れたため更にこれらの者との話合をすることになつたのであつて、事は平常のときには見られない、組合分裂に対する釜賀自身の問題であるため釜賀の希望に添つて徹宵するに至つたものとさえ言えるのである。

(3)  更に、同夜の相川と釜賀との話合の内容についてみるに、釜賀は、たとえ相手が課長であろうが職場における上長先輩であろうがそのような関係には一切束縛されないで、一貫して旧労側で聞いていたところのみが正しいと考えて旧労の組合員の立場を変えず、話合というよりは一方的に敵意をもつて会社及び新労を激越な態度で難詰する攻撃の手をゆるめなかつたものであり、相川の発言も、もつぱら受働的に、このような釜賀に対する弁解説明ないし反駁としてなされたものであつて、決して課長たる地位を利用して新労加入を働きかけたのに対し釜賀が反対していたというようなものではない。釜賀も相川と問答するうち時間を要せずして双方の見解の平行して解決せず対立の深まるばかりであることは知り得たであろうし、更に工務室の者らを呼んで貰つても、これらの者とどのような問答になるかも十分予測できていた筈である。それにも拘らず、自分の希望で深夜工務室の者らを呼び寄せて貰つたのであり、しかも、遂には工務室の者らの言うところに耳さえ藉そうとしないような極端な態度さえ示していたのである。

(4)  以上(1)ないし(3)のようにみてくると、昭和三七年六月一四日当夜の相川宅における相川と釜賀との会談は相川が積極的に釜賀を招致したものでもなく、また会談の内容は釜賀の言動があつてこそ、これに対応して相川の本件言動があつたといえるのであり、右のような当夜の情況並びにさきに認定した相川と釜賀との間の、普通の課長対課員という関係を超えた親密な関係を前提として相川の言動を評価するときは、たとい相川に釜賀の新労加入を望ましいとする考えのあつたことを考慮に入れても、本件当夜の相川の言動を以つて使用者の利益代表者たる課長がその課長たる地位を利用して課員の一人である旧労組合員に対し旧労脱退、新労加入を勧慫し、よつて旧労の弱体化を図つて労働組合の運営に支配介入した不当労働行為であるとは到底認めることはできないのである。

五、したがつて、相川の本件言動を不当労働行為であると認定し参加人組合の請求にかかる救済を一部認容した熊本地方労働委員会の命令は違法であり、被控訴会社のなした再審査の申立を棄却した控訴委員会の命令も違法であるから、同再審査申立棄却命令は取消すべきである。

よつて、被控訴会社の再審査棄却命令取消請求を認容した原判決は、結局正当であるから、本件控訴は理由がないので、これを棄却することとし、民事訴訟法第三八四条、第九五条、第八九条、第九四条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 岸上康夫 横地恒夫 平田孝)

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